フォレスタ Vol.7 [俳句] 後 知世子さん

今回、後知世子(うしろちせこ)さんの「輝き」についてお話をお聞きしました。 チセコさんは御年78歳(S9.09.14)であられ、いままで学校給食の調理員を経験され、娘さんが生まれた昭和37年頃、娘さん様の授乳中に横になりながら見ていた下津町の広報誌に、文化部のボランティアによる俳句会の案内を見つけ「この可愛い娘さんの成長日記のように残すことが出来ればと思い」子供を背負いながら公民館で行われた俳句会に参加したことがきっかけとなり、現在まで約50年間、俳句を趣味にされています。現在は、通院による抗癌化学治療を受けながら、辛い治療後の副作用があるなか趣味である俳句を楽しまれておられます。

海南市下津町大崎に嫁がれて、夫を38歳の時に亡くしてからは女手一つで子供を育てるために2年間かけて調理師免許を取得し、下津町大崎小学校の給食の調理員として定年まで勤められたとのことです。子供が自立し安心したそんな時に頑張り屋だった息子さんも33歳の若さで亡くなられました、しかしチセコさんは気丈に働き定年後も公民館へ出向いては俳句を趣味として行いながらボランティアで地元、大崎小学校の調理実習のお手伝いを行い地域活動も熱心に活動されてきたとのことです。

調理員として働いていた時は、子供たちに栄養が良くて安全なものを食べさしてあげたいとの思いから、小学校に申し入れ冷凍食品を使わずに地元のお魚やお野菜を仕入れ調理していたとのことです。

今でも、立派な大人(50歳前後のおじさん、おばさん)に成長したあの時の子供たちが同窓会で「チセコおばちゃんのメンチカツが美味しかった」と話題にしてくれていることがとっても嬉しいと、素敵な笑顔が印象的でした。
(写真:定年後の調理実習のボランティアの様子)

守友

今回はよろしくお願いします!
俳句を始めたきっかけをお伺いしましたが、続けていて良かったことやエピソードなどがあれば教えてください。

そやねェ、俳句を始めて1年程した時に(娘が1歳の時)町の俳句会に新興俳句運動で有名であられた故・山口誓子(やまぐちせいし)氏に出会えたのは素晴らしい思い出、その時の事は今でも忘れられへんなぁ。そして、地元の東洸寺の住職であられた故・今川東洸(いまがわとうこう)先生に師事をして楽しく続けられたんやと思う。

私は初めての拝見、四国霊場会公認先達と書かれた錫杖(しゃくじょう)を見せてくださいました。(四国八十八ヶ所霊場すべてを4回以上巡拝している事やお寺からの推薦などをいただかなければいただけないとのことです)大きくてそして、この迫力!

孫様が交通事故で大けがされた時にそっと孫に肩をかし一緒に行ったお遍路参り、亡くなられた義理の姉との思いでの写真。後ろからやさしく見守り姉の後ろを歩くいつでも家族思いなチセコさん。

守友

今からは想像できませんが、ふっくらされていますね。

そやろ~(笑)

守友

行政が発行いている広報誌などに俳句の品紹介などあり、私も目にするのですが、つくられた俳句はいつもどのようにされていたのですか?

ちろん広報誌にも出していますし、これ(地元の岬俳句会)が発行している「岬」や、書店でも販売されている(和歌山県俳句作家自選年刊句集)の「紀伊山脈」などにも作品を出してるんよ。

抜粋:「水仙を密に束ねて供華とせり」 「たっぷりと赤飯盛りて初大師」

守友

急なお願いですが、代表句をぜひお願いします!

守友

たくさんありがとうございます!最後に、俳句の楽しさや思いを聞かせてください!

ん~「老後の楽しみやね!」美しい自然を眺めて自然を感じる。お金もかからないし、 鳥が鳴けば鳥の鳴き声を聞いて喜びと幸せを感じる!かなぁ(笑)

そして、私の近くでずっと気になってたのが・・「くくりちゃん」大切な家族の一員とチセコさんは言います。

化学治療後、数日はとても副作用でしんどいのですが、そんな時は決して横になっていてもベッドの上には上がらず、どんな時もチセコさんの側を離れないと抱き上げ話してくださいました。

守友

そして、チセコさんの治療を支えながら、今回の取材時も時折そっと優しく見守る家族様がとても印象的でした。(2013.06)

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